甲斐犬オヤジの独り言40



59年の回想録・・・Part2-2」 

 

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世の常として良いことばかりは続かないものである。

私の場合も28歳の時に、商法改正があり、俗に言う総会屋対策の一環で、千株単位の取得となり端株は切り捨てられることになった。(1株万単位等は別)つまり株主ではなくなったのである。
そして株主の配当や優待制度以外、株主には企業からの利益給与は出来ない事となり、その結果当然私も廃業となった訳である。(あああ俺の人生ついてねえな〜。。。)

 

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27歳の時に自宅の立ち退きの問題があり、川崎市多摩区(後の麻生区)王禅寺に引っ越すことになり、20年間住み慣れた下北沢を後にすることとなったのである。
川崎と言っても川崎駅の臨海側と違い小田急線沿いの新百合ケ丘駅近くであり、新興住宅街であった。

犬を飼いたいと長年思っていたが、多少の庭もあり早速甲斐犬を購入したわけである。
その頃は甲斐犬愛護会も知らず、偽甲斐犬を飼いその団体が主催する展覧会にも出陳するようになって6年、ハテ俺の飼っている犬は本当に甲斐犬か?との疑問符が日増しに増して行ったのである。

そんなある日、知人の女性から「私の主人は山梨出身で主人の従兄弟が甲斐犬愛護会の審査員をしているので」と言って旦那さんと会い、会見愛護会の展覧会を見学することとなったのである。

これが甲斐犬愛護会と出会う切っ掛けである。

初めて山梨で甲斐犬愛護会の展覧会を見学した感想は、犬がデカイと言うのが正直な感想である。
当時の私の所属する団体は全犬種団体であり、甲斐犬は小型を主にしていたので、愛護会の展覧会を観て「なるほどこれが甲斐犬だわい」と妙に納得した。

その審査員とは今は亡き塩沢審査員だ。
この場を借りて、ご冥福をお祈り申し上げる。審査員としても甲斐犬を観る眼力も両方兼ね備えた人物であった。
この方を失くした甲斐犬愛護会にとっても残念至極であろうことは想像に難くないのである。

私が常に思うところは、展覧会は審査員も出陳者もギャラリーも皆一同に甲斐犬を観る目を養う研鑽の場であると謂うことである。昨今の展覧会では、なんとかちゃんグループ、の方の 見学も目立つようになっては来たが、私はこれらの方々を決して否定しようとする立場にはないが、あなた方は展覧会の主役ではないとの自覚はお持ち頂きたい。

以前の独り言にも書いたが、道いっぱいに広がり出陳犬の進路を妨害したり、威嚇する犬まで見られる始末。
この光景は愛護会だけでなく、日保やJKCの他の団体の展覧会にも甲斐犬の「何とかちゃんグループ」、しか見かけないのではないか。
その点一考の余地はあろう。但、女子供に文句はないが、一緒に「何とかちゃんグループ」に参加している男は、私から言わせればアホなへたれ、戦後の悪しき平等論に飲み込まれた日本にいらない日本人である。
こうい輩に限って煙草を吸わないのが現代人だとと勘違いしている、所詮自分の年金にしか興味のない自己中心的な人物達である。何も煙草を吸わないから悪いというのではない。肺が悪く吸えない方もいるだろうし、健康志向でやめた方もいるだろう。私は煙草も文化だと思い吸っている。

しかし現在の禁煙は異常ではないのか。アメリカではエリートサラリーマンは禁煙者が多いとは聞くが、そのクラス以上の多くは今でも葉巻も吸っているよ。煙草やめて大麻吸ってる奴もいるし、コカイン等麻薬に手を出してる者も多いと謂う。
まあ日本のヘタレには真似できねえだろうが。

そして一番私が許せないのはホテルの飲食店だ。酒場で煙草が吸えないのは何なのだ。居酒屋で煙草が吸えないのは何なのだ。こんなもの味噌の入ってない味噌汁だべ。まあホテルの部屋では吸えるのがせめてもの慰めてか。
こう言うことで消失した文化も多々あるだろうに。

 

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廃業後の生活は不安定であり、当時付き合っていた台湾人の女性から、都内のある街で店舗の名義や法的なこと、店のトラブル、用心棒等を条件に折半で台湾クラブ(売春クラブ)をやらないか、との話があり、生活費を稼がなければならない私にとっては渡りに船の話であった。

考えてみればその頃から自宅には週2日しか帰らない切っ掛けになったように思う。
その当時の自宅の生活費は、どんなことがあっても月40万以上入れるのが女房との約束であり、「亭主元気で留守がいい」の典型的夫婦である。

台湾クラブも違法であるが、私に取っては「捨てる神あれば拾う神あり」であり、2〜3年は食いつなげて行けたのである。
月120〜130万位の収入であった。
自宅に40万入れても月80〜90万の小遣 いになったので、毎月50万を無尽講などに活用し、最後まで落とさず500万の満額を月1割で人に貸して、せこい生計を維持していたのである。
不動産屋の真似事をしたり、土建屋をやったり、新宿で日本人ホステスのクラブをやったり、川崎でパブやスナックをやったりしながら徐々に生活も安定していき、まさに「盆と正月が一ぺんにに来た」のである。
20代後半から30代前半の時代であった。


盆と正月が一ぺんに来たのは謂うまでもなく、バブルの到来。

それをひょんなことから気付いたのである。

六本木のよく行く店のお姉ちゃんが、私に相談があるとのことでその晩お泊りの枕話に、今借りてる部屋をひと月で明け渡せとの書類が来て困っているとのこと。
その書類を見たら、有名自動車販売会社の名があり、代理人が専任されていた。

そこで私も南青山の○○マンションに住む××の代理人であることを告げ、早速相手と六本木の喫茶店で会い、相手がお互いの自己紹介も済むか済まないうちに、「ズバリ、500万円出すから手を引いてくれ」、ときた。

彼女のマンションは半年前に2年の賃貸契約を交わしているが、家賃15万円のワンルームであり、立ち退きでいきなり500万円出すことはもっとゴネレバもう300万円出るだろうと考え、気持ちの中ではニンマリ、顔は相手に負けじと渋い仏頂面。
1週間程返事を延ばし延ばして相手もシビレた頃、向こうから下北沢まで来るという。

今度は下北沢の個室のある喫茶店で会うのだが、開口一番「何も言わず「これで引いてくれ」の一言で大きな紙袋から銀行の帯がついた15束の万札、1500万円である。
これ以上私に文句の一つもなく、「分かりました手を引きます」、相手も「これからもよろしく」との円満解決。

その夜は赤坂プリンスホテルで彼女と待ち合わせ、報告と現金の受け渡しで、彼女もその金額にオッタマゲのゲで大喜び、私が折半で750万でどうかの返事に「本当にそれでいいんですか」と聞いたので、「それでよし」の返事で部屋の話は解決したのだ。

だが、後日色々調べたらその自動車販売会社は元より、大手のデベロッパーが戸建やビル・マンション等が片っ端から地上げしているではないか。
私も不動産や金融の大先輩や仲間とグループを立ち上げ、この物件は誰々が、この物件は俺が、というように仕分けして目ぼしい物件は片っ端から地主やオーナーと交渉して買いまくった。

相場が2千万円のマンションを3千万円で買うのだから10件中8件は決まってしまう有様であった。
ひと月かふた月もしないうちに、3千万で買ったマンションが4千500万円でどんどん売れていくのである。

しかしいいことは長続きしないの通り、お客も相場の1千万円プラスでは返事を渋るようになっていき、又大手のデベロッパーには資金力で叶うはずもなくやがてバブル崩壊がやってくるのである。

ここでまた「あ〜あ俺の人生ついてねえなあ、」となるのだが、私の経験した4年間の収入は平均月3千万円であった。
飲食代が月平均1千万であり、多いと月1500万円は出たものだ。
稼ぎの半分は夜毎の飲み代であり、そのお姉ちゃんのチップや5人の付き合っていた彼女達の生活費であった。
しかしこれが半永久的に続くものと信じきっていたのだからアホなピエロである。37歳頃までの話。


このバブル崩壊の後遺症は天地がひっくり返ったような状態に陥った。

収入はゼロ、それどころか投資のため取っておいた土地建物全て金融会社に差し押さえられ残ったものは借金だけ。

何をするにも金銭の目処は立たず、金の切れ目が縁の切れ目で、付き合っていた女達とも一人消え又一人消えといなくなったが、金だけじゃないと2人残った。その2人も2年くらいでいなくなった。

40代は本当に生活苦の状態が10年程続いたのだが、そんなものにめげる紅蓮司さまではない。

ある街で倉庫を貸切り焼肉屋を始めたのである。
それは単純な発想で、自分で店を始めれば3度の飯にもありつけるし、金を出さずに酒も毎日飲める、との発想であった。
朝鮮人ではないが肉が大好物であり、肉も毎日食えるとの単細胞的思考からであった。
人間万事塞翁が馬、だぜのだからどうしたである。
お天道様と米の飯はついて回る、泣きなど入れずそれがどうしたである。
しかし現実は1年程順調だった店も私の放漫経営で2年で夜逃げである。

最後の1年は息子も川崎から手伝いに来てくれ、その当時付き合い始めた横浜の女性もよくやってくれたと感謝している。

その後は御坂の山中の牧場後を借り、甲斐犬繁殖一筋に絶対甲斐犬で飯を喰える人間になってやるとの誓も新たに、他に商売をやらず甲斐犬一本でやり抜く決心をしたのである。

人の縁も一期一会であるが、人生の折り目、節目には必ず裏で支えてくれた女性達がいた事に改めて感謝する次第である。そしてこの源友会のホームページを毎回更新してくれているのはアメリカ、ニューヨーク在住の次女である。

人は独りでは生きていけない。

尊敬する人がいて、仲間がいて愛弟子がいて子供達がいて、そして裏で私を支えてくれた女性達がいたらこそ私は独りでも生きていけるのである。


御縁あった方々に厚く御礼申し上げ、50歳代までの回想録とする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「【日いずる国】より 山谷えり子、心は既に次の闘いへ」

 

 

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