甲斐犬オヤジの独り言39



59年の回想録・・・Part2」 

 

59年の回想録Part1はこちらです

 

 

前回は小中学生時代の話であったが、ここでは10代から50代までの話をしてみたいと思う。
10代から50代と幅があるのでちと長くなると思うが御容赦願いたい。

 

高校時代は先ず酒に喧嘩に女の日々であったが、今思うと懐かしくも羨ましくもありで、自分なりに納得した時代であった。私の第一のモットウは「納得の人生」である。

寿命の長短など眼中にない。
高校時代の喧嘩相手の一番は朝鮮高校であった。今ではチョン校も生徒が少ないが、当時は結構いたものである。
時の政府は自民党であっても、一般には左翼全盛時代であり、チョン校生にも勢いがあった。
時代は東西冷戦構造下であり、左右の対立構造の時代でもあった。

私は16歳から右翼少年であり、学校の勉強はしなくとも政治関係の本だけは夢中で読んだものだ。
「日本書紀」「古事記」なども説明本などとも合わせ読みながら読んだが、神々の名前が多すぎて覚えきれなかった記憶がある。。

チョン校生とは駅のホームで見かけたら即喧嘩、電車の中でも店の中でも街中でも場所等お構いなしモードである。
しかも向こうも日本人蔑視の金日成教育で育つ共産党青年部的な思想教育を叩き込まれているので、チョッパリ何するものぞ、で威勢がよかった。
親の時代は敗戦後の日本で、日本人を殺して土地を乗っ取った世代であり、その影響もあればこそ尚更である。
しかしその他多くの日本人高校生はただの腰抜けである。

戦後の日本人は「朝鮮人差別はよくない」「戦争は日本が悪かったから仕方ない」等、日教組に教え込まれ、今でさえ朝鮮人差別は駄目との50代以上のアホなジジイやババアがいるではないか。
戦後、日本人を徹底的に差別してきたのは朝鮮人である。
この真実が今でも分からない。その事実真実に目覚めた若者や女性にネトウヨとレッテルを貼ったのも朝鮮人である。
いつまで騙されれば気がつくのか。馬鹿は死ななきゃ治らないてか。


不良高校生の私は、学生服のままヤクザにも喧嘩を売っていた。
地元のヤーさんに喧嘩を売っても何も起きないこともあったが、たまたま相手が大人数の時に鉢合わせになればその場で当然ボコボコに、今風のフルボッコで4〜5日は自宅でウーウー唸り声、しかし治ればまた同じ事の繰り返しで、私に付いたあだ名が「紅蓮司」愚連児である。
今では甲斐犬一筋の「仏の廉司」である。(そんなこと誰も言わないが。。。)

喧嘩相手は全学連の大学生も対象であり、長い竹竿を持ちジグザグ更新をしている50人程を相手に、こちらは3〜4人で手に木刀を持ち突っ込み、竹竿で叩かれ、これまた3日程入院すること2度3度、、、、その度親父から「喧嘩するのもいいが死んだら終わりだぞ、相手の数みて考えろ馬鹿野郎」と言われたものである。

 

高校2年の夏休みに新宿のディスコで美女と知り合い、意気投合してヤサを聞けば世田谷は下北沢とのことで、話がトントン拍子。
そして彼女のアパートで同棲することに。

ここまでは良かったのだが、そうは問屋が卸さない。彼女にはヒモが付いていた、のではなく、私と同じくサオがついていたのである。
ただ金玉はないがサオはある。胸も大きく膨らんでいる。

まあいいかこれも社会勉強だと割り切ればいい経験だべな。
しかし彼女(ううん・・彼?)とは長続きしなかった。

嫌いで別れたのではなく、お互いの時間が合わなかったのが一番の原因である。
私は朝出かけるが、彼女は始発の電車で帰宅するので、朝の1時間位と日曜日にしかゆっくり話も出来ず、すれ違いの生活であった。
出かける前には洗濯した下着を着替え靴下も彼女 が履かせたくれた。
朝は飯も炊いてくれた。しかも鍋で。
オカズは塩辛と卵焼きと魚の缶詰位の質素な朝食であったが、彼女の気遣いに大いに満足していたものだ。
2番目の別れの原因は私にあり、よく行く喫茶店のウエイトレスと付き合い出したので日曜日に帰らなくなり、自然消滅状態の別れであった。
私が30歳過ぎでも新宿へ行けば彼女の噂をよく耳にしたものである。そのくらい美人であったし、大人の女性を感じさせてくれた人でもあった。
どちらの人も私より4歳年上の人であったが、可愛くて優しい人達であった。

今でも幸せにしてるだろうか。そう思い出がよぎるこの頃である。

 

私の鼻の左に今でも16歳の時の喧嘩傷がある。年とともに傷跡は小さくなるのだが、今でも分かる。
この喧嘩は、ある駅で友人と2人で人を待っていた時に、駅前の喫茶店から5人の背広姿のヤクザが、こちらを見ては店を出たり入ったりと、こちらの様子を伺う動きであった。

待っていた友人も来たので、3人で喫茶店とは反対の路地を歩いていたら、「おい、待てこの野郎」との一声があり、振り向くと5人のヤクザが走りよって来た。
そこで私も「なんだこの野郎、おめえらなんか関係ねえ」と言った途端に喧嘩が始まったのだ。
相手の1人が大声で「この中に朝鮮人はいるか」との問いに友人の一人が半チョッパリだと告げたら、「お前には手出ししないから離れてろ」と5対2での喧嘩が始まった。
友人は170 センチ弱の小柄で、相手の5人は180センチ前後の体格であり、勝負にはならなかったが。。

私は目前の相手を2〜3発殴ったところで、後頭部や肩背中に激痛を覚えた瞬間、体のバランスを崩し地面に倒れる寸前鼻にゲソパンをくらい、一瞬頭の中に閃光がはしるのを見たが、数分気を失っていたように思う。(二人共サンドバック状態だったらしい)その間ももうろうとする中正気に戻るに従い体中の痛みで身動き取れない状態であり、口も顔も腫れあがり口がきけない状態であった。
後で分かったことは5人のヤクザは皆朝鮮人で友人の半チョッパリには手を出さなかったが、その友人が「これ以上殴れば死んでしまうから止めてください」「やめないなら俺も殴ってくれ」と頼んだのでやめたとのことらしい。
そして私の後頭部や肩背中を殴った道具は特殊警棒という伸び縮する鉄の棒だと教えらたが、それは初めて目にするものであった。

その鼻の傷が今頃また痛み出したのである。まあ朝鮮人は天敵だわ。

 

10代の喧嘩の話はキリがない、本1冊書ける位ネタはあるが、20代へ行こうと思う。


22歳で総会屋へ転向したのだ。
端株を買い集め株主気分で会社回りを生業として生活していた。
「こくゆう時評社」を自宅で立ち上げ、水、土、日、休日の週4日制であり勿論祝祭日も休みである。

相手の会社は全て上場企業であり大企業であり、しかも本社の課長クラスが相手であった。
経済関係の本も読みあさり、日経新聞は欠かせない新聞である。その日の情報は日経でないと取れないし、本社の課長相手に話も出来ないからである。
お得意さんは銀行と証券会社で、2〜3度顔を出せばお付き合いが始まり、毎月集金に行けるのである。

この仕事を始めてから3年目で並みクラスの総会屋と同じくらいのレベルにはなったが、上を見れば限がないのはどの世界も同じであろう。
25歳で月に60万平均の収入で あり、当時はまだ年2回の決算が普通で、毎月出せない中クラスの企業は3月、9月の決算後の新年度である4月、10月の年2回が支払い月に当たり、毎月の集金と合わせれば160万位の収入であった。

25歳で年1千万の所得があったのだ。

今から35年以上前の話である。
それゃ酒もあおるし女も泣かす状態でっせ、ほんまに。。私がたまに関西弁がでるのは8年間毎月大阪へ行っていたためである。上のは歌の文句であるが。

ここで私が毎月出していた「こくゆう時評」の中から「尖閣」についての記事があるのでちと長くなるが紹介したい。(私が25歳頃の記事)

 

「固有領土、尖閣諸島を守れ!!」

さる新聞の五月三十一日付朝刊に「ヘリポート建設反対」という見出しの園田外相の表明記事がでていた。これを読み怒りを感ずるは小生一人ではあるまい。

この表明記事を一部引用すると{三十日の衆院外務委員会で、尖閣諸島の開発調査について「日本の国益を考えるならば(調査などせずに)そのままの状態にしておいた方がいい」と述べ、沖縄開発庁による仮ヘリポート建設など現状を変更する動きに反対の意向を表明した。
これは社会党の井上一成氏の質問に答えたものだが、中国との領有権問題を事実上タナ上げしてもよいとの認識を示したものと注目される。}というものである。

一体どこの外務大臣かと疑いたくなるような発言ではないか。

又同外相はこの中で、「仮ヘリポート建設など具体的な調査活動の日程など事前に知らなかった」と述べ、沖縄開発庁に不信感を表明し、「有効支配を宣伝するような行動は慎むべきだ」と強調したというものだ。そして結びには、「尖閣問題は二十年でも三十年でもほおっておけばいい」との中共のトウ小平の発言を引用し、これに賛意を示したとある。

これが日本国家国民を代表する外務大臣の発言であろうか。無国籍人的な売国奴と少しも変わりない発言で許されるべきものではない。
そもそも園田外相の発言は、中国外務省が日本側の尖閣諸島調査に抗議したことに関連したものだ。

中共側の言い分とは、尖閣諸島の帰属問題は日中両国の同条約に違反しているというものであろう。しかし、尖閣諸島が日本固有の領土であることは歴史的にみても国際法的にみても明らかなことは少しの疑いもない事実なのである。
本来ならば中共側の抗議に対し、外務大臣たるもの毅然とした態度を取るべきではないか。
ここで尖閣諸島が日本固有の領土である事実をいくつかあげてみよう。

 

一、 明治十八年以来、日本政府が実地調査した無人島であり、当時清国の支配が及んでいないことを確認の上明治二十八年に日本領土に編入した事実

二、 明治28年発効の下関条約で清国から割譲を受けた台湾、清国諸島には含まれた事実はない

三、 サンフランシスコ平和条約でも、日本が放棄した領土に含まれておらず、昭和四十七年発効の沖縄返還協定で米国の政権下から我が国に返還された事実

 

以上我が国固有の領土であることは紛れもない事実なのだ。では何故中共がこの尖閣諸島を問題にするのか考える必用があろう。

中共側が領有権を問題にするようになったのは、東シナ海の大陸棚油田が注目されてからである。
つまりそれ以前には中共は自国の領土とは考えていなかったのである。
彼のサンフランシスコ条約により沖縄と同時にアメリカの施政権下にあった尖閣諸島に、当時中共は少しの異議をも唱えなかったのであるから、中共の意図するところは自ずと知れよう。日中の友好関係も無視するものではないが、それ以上に無視できないのが領土問題ではないか。固有の領土とは、我が民族祖先の大切な遺産であり、又日本国家国民の基礎であるといえよう。
国家間の友好は、国際情勢や時代により変化の生じる流動的なもので、普遍的なものではない。
ましてや共産主義国家においてはだ。

しかし領土の問題は、国家存在の有無に関した重大なものであり、社会主義、共産主義の中国との友好の美名の元に何らかの取引の具と化するものではない。又許されるべきことではない。

中共自身、国境問題や領土問題でソ連やベトナムに対し、自国の主張を曲げず厳しい態度を取っているではないか。
しかしながら我が日本政府の弱腰外交はなんとしたことだろうか。

園田発言は戦後日本の姿、国家意識、領土意識の欠落を目の当たりに見た思いである。
尖閣諸島の領土問題を中共のいうような棚上げしたならば、我が国家民族に取って禍根を残すことは間違いないのだ。
現日本政府の事なかれ主義や弱腰外交では、国家主権の防衛を放棄したも同じなのである。
このままではやがて北方領土や竹島の帰属問 題にも大きな影響を及ぼすだろう。
日本政府よ、事は重大であり、自国の領土は毅然たる態度をしめすことだ。

軟弱な外交を反省し、実効的支配を確立せよ。
それが日本の国益を守る政府及び国民の取るべき態度ではないだろうか。

 

 

以上が私が若かりし頃の記事であるが、現実の状況はもっと悪くなっているではないか。

いかに自民党の軟弱外交が今まで駄目にして来たか。

そのつけが今現れているではないか。

ここで尖閣問題を解決出来る総理は自民党の安倍氏以外なかろう。

 

まあ話を元に戻すとしよう。59年の回想録2-2まで一服・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「【新羅の入寇・犠牲者への鎮魂】 韓国・朝鮮人の日本侵略?!」

 

 

 

 

「国民の怒りが爆発、民主と自民の演説の温度差!」

 

 

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