甲斐犬オヤジの独り言37



「59年の回想録 1」 

 

昭和28年9月23日これが私の誕生日である。

来年は60歳還暦である。我ながらよく今日まで生きてこられたと思う。

50代最後の年に当たり、静かな伊豆高原で人生をちと振り返ってみた。(まあ柄ではないが)
今回の誕生日に当たり、伊豆高原エクシブに一泊し、海の幸を中心とした懐石料理を十分に堪能させていただいた。
私は以前から伊豆が好きで、特に西伊豆、南伊豆が好きである。
一番多く行っていた頃の30代には、女房子供を置いてまで夏の半分は伊豆へ行きっぱなしの放蕩生活。海釣りが好きで、泳ぐのが大好きな海大好き人間である。
子供の頃から海一辺倒で、山など眼中になかった。山もいいなあ、と思ったのはここ10年くらいのことである。

 

私の生まれは長崎県長崎市であり、小学校へ上がるまで大浦天主堂で有名な大浦に住んでいた。

大浦川の畔、海まで徒歩5分という地の利で毎日海で遊んでいた。
長崎には日本人だけでなく、支那人も朝鮮人も多く住んでいた。
ちょこちょことてん足で歩く支那人の婆さんや、天秤棒を担いで屠殺場から肉を売りに来る朝鮮の婆さん達がいた。 子供心にも無意識の内に異国情緒を感じていたようにも思う。

正月には爆竹が鳴り、お盆には川幅いっぱいの聖籠流しが暗闇の中、明々と川の流れとともに海に向かって終わりのない旅のように続くのである。

ラーメン屋はない。

あるのはちゃんぽん屋である。
今でも無性にちゃんぽんや皿うどんが食いたくなり、スーパーで冷凍のちゃんぽんや皿うどんを山と買うのである。
電子レンジでチンするだけで手軽なのだが、味はまあ〜その〜程度なるものは仕方がないと諦めている。 無芸大食とは私のことで、他に取り柄は何もないのだが、「それがどうした」で居直って今日まで生き延びてきたのである。要は食うのが趣味。

 

長崎時代には週3回は鯨の刺身、週3回は肉料理に豚足、レバ刺し、しかも生のレバーに塩だけという至ってシンプル。
東京に移ってからもこの食生活は続くのであるが、同級生達からは「朝鮮人かよ」と言われたこともあった。その度に「俺は日本人だが豚足はウマいんだよ」と言い返していた。
鯨の刺身も大好物であるが、今は高くて手が出ない。たまに食べてもあの昔の鯨の刺身とは程遠い気がしている。
昔は肉にサシが入った一見和牛のような鯨の尾の身の部位であった。

今では渋谷の「くじら屋」にも昔のような新鮮な尾の身の刺身はないのではないだろうか。
くじら屋にも30年ほど行ってないが。

食物ついでに長崎時代からベーコンといえば鯨のベーコンのことと思っていたが、豚のベーコンを東京では普通ベーコンと言っていることに気がついたのが15歳位の時である。
我が家ではそれまでも鯨のベーコンを食していたのである。

まあ田舎者である。

肉、魚中心の食事で野菜類は漬物以外一切苦手であった。
というより今でも野菜は長ネギと漬物以外まず食べないので、野菜不足には野菜ジュ―スで補っている。 肉じゃがやお煮しめ等はたまに食べたくなるが、他の野菜は食いたいとも思わない。まあ出されれば食べるが。
但、生姜やにんにくは大好きで、セロリ以外の香味野菜も好きではある。

 

小学校一年生より東京の世田谷区北沢に長崎より上京する。

その頃の世田谷はまだあちこちに空き地があり、子供達の格好の遊び場であった。
最寄りの駅は小田急線と井の頭線が交差する下北沢駅徒歩10分、小田急線の次の駅東北沢駅、徒歩10分、井の頭線の下北沢駅より隣駅の池ノ上駅徒歩10分と新宿や渋谷に行くには地の利の良い閑静な住宅街であった。

よく明治神宮や渋谷の街には徒歩で遊びに行ったものである。
地元で遊ぶよりどこかに出ていくのが好きで、夏休みは多摩川で魚取りや、カブトムシやクワガタ取りに毎日夢中であった。休み中でなくとも学校をズル休みしてまであちこち出かけたものである。

小学生から一級上はお友達で、肌の合わない奴とは殴り合いの喧嘩もよくした。
そしてそれが高校入 学まで続くのだが高校へ入るとそうもいかなくなってきた。
魚取り虫取りの他は、ビール瓶を酒屋から盗んでは隣町の酒屋へそのビール瓶を売ったり、鉄屑屋から銅線を盗んでは隣町の鉄屑屋に売ったりしてなかなかのシノギをしていた。
小学生でも結構な小遣いになったものである。(小学3〜4年生時代)

同じ地元であるのだが、戦前よりの土地っ子とニュウカマー世代とはちと違いがあり、土地っ子は並か馬鹿で、新しい世代の子供は勉強の出来る生徒が多かった。
これは親の職業の違いで、土地っ子の親は商店や職人が多く、サラリーマンでも中小企業の勤め人が多数を占めていたが、新世代の親は大企業のサラリーマンと官庁勤めが多く、子供達の学力にも影響していたと思う。

私などはニュウカマーであっても土地っ子のお仲間である。
私なりに変化が見られたのは、読書を好きになってからである。それまで教科書など学校の授業以外開けたことはなく、小学校入学以来宿題など一度もしたことはないことが、自慢にならない自慢であった。

小学校四年生で「ファーブル・昆虫記」「シートン動物記」 を夢中で読み、読書の面白さに目覚めたのである。
目覚めたとは言え何も新世代のお仲間に無事なれたというのではない、馬鹿でも読書好きになれることを証明しただけのことである。

「万巻ノ書ヲ読ムニ在ラズンバ焉ンゾ千秋の人タルヲ得ン」

吉田松陰の言葉だが、私なりに「多くの本を読んで初めて並の人になれる」と解釈して今日まで来ている。

小中学校で学んだことは、教師の教え学業ではなく、師とは本であり、孤独であり、失敗や絶望であり、時には暴力であり、情けであり、その先に信頼であり信用なのだと謂うことであり、それでも希望を忘れないと謂うことが海を愛した小中学校を通しての私の結論であった。

 

 

回想録2へ続く、、、、

 

 

 

 

 

 

 

一服タイム,,, 

 

 

朝鮮人の「強制連行」も「従軍慰安婦」も全て嘘。。

まともな在日朝鮮人は「黙して語らず」、半島に住む朝鮮人は「キチガイ」。

 

 

 

 

 

 

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