甲斐犬オヤジの独り言36



「30年振りの相撲観戦」 

 

相撲観戦は30歳前後の時から約30年振りの両国国技館での熱戦を観られた刺激的な一日であった。

やはり生で観る迫力と力士同士の阿吽の呼吸が伝わってくる中での、一瞬の立会いは観るものの心を奪う素晴らしいものである。

 

相撲の歴史は古く、起源は全て皇室に継るのである。
神話では天孫側の「建御雷・たてみかずち」と出雲側の「建御名方・たてみなかた」との素手による「力くらべ」つまり相撲で決着をつけている。
この勝負の勝敗は「建御雷」の圧勝に終わるのだが、負けて信濃まで逃げて降伏した「建御名方」を御祭神として祀ったのが諏訪大社であるとされている。
この勝負の結果、大国主は国土を天孫に献上する訳だから、皇室を中心とした日本国の起源は、実に「相撲」の勝敗により決定されたものと言える

(神宮会館HPより抜粋)

 

相撲は勝者に供物を贈りその力量を称え、その一方で敗者には拍手を惜しまぬ美風は神代以来の日本の伝統的心情に由来するものと考える。
拍手(かしわで)は日本的に謂えば、神前で手を叩き、敗者には相手を称える為に柏手を叩くのである。
勝者も敗者も礼に始まり、礼で終わるという後の武士道とも共通する日本の美徳、美風なのである。

私が相撲観戦時代は両国ではなく蔵前国技館であった。
今の両国国技館は近くに東京スカイツリーもあり、観光の名所にもなっている。
又隣には「江戸東京博物館」もあり相撲を観て、名所巡りも出来るという環境にあり、是非皆様も機会があればお立ち寄り頂きたい。

それにしても日本人横綱は出ないものか。

フーッとため息が出るのも私ばかりではないはずである。
「なして、何で、なんでやねん、」とか言ってるあいだに、横綱「日馬富士」誕生である。
勿論日馬富士の精進、努力の賜物に違いないし、称賛に値するものであるのだが、日本人横綱は「何処、何処、何処。何時、いつ、いつ」てなもんだ。


相撲に関しては、以前の独り言で「横綱白鳳」の感想を書いたので参照していただきたいのだが、相撲の三大要素、基本とは、心・技・体である。
今の日本人力士に足りないのは、先ず第一に心であり次に技であり、三つ目に体である。
本来心技体とは一帯のものであるはずなのだ。
今の若者に限らず日本人の精神性の欠如が如実に現れているではないか。

政治を見よ。

不透明な不確実な不道徳な民主党が政権を担っているではないか。
そしてその立役者が愚かなる大衆である。
目先の欲に目が眩んだ愚民であり、子供手当に騙され、ガソリン値下げに騙され、挙げ句の果てはこの不況下に消費税増税とはあんたら何考えとんの? ン〜、、、、考えてないか、、、。

 

昔から小兵力士はいたものである。

初代若乃花、強かったねー、千代の富士、これも強かったねー。
千代の富士といえば北の湖、私はこの北の湖が一番の贔屓であった。
横綱若乃花、麒麟児、金城、大錦、等「花の二八(にっぱち)組」と呼ばれた昭和28年生まれの力士達で、私も28年生まれの同世代である。

北の湖は「憎たらしいけど強い」、千代の富士に対しては「早い、強い」が相撲ファンの印象であった。

体格のない力士が横綱を張るには精神面の強さがなければ絶対になれないのだ。
横綱とは即ち神の領域に達した人のことである。

初代若乃花も横綱に推挙されたが何度も「神の領域に達したとは畏れ多いと断っている。
それほど綱を張ることは角界にとっては頂点であり、神聖不可侵なる存在なのである。

だが日本の国技・相撲界に日本人横綱がいないのは協会も一考すべきである。
そうでなければ横綱白鳳や日馬富士のモンゴル相撲出身の、国技を背負ったプライドと精神と闘魂に対し、ひ弱な日本人力士など到底敵う相手ではないのである。
国の威信とモンゴル相撲というものを背負って生きているこの二人に追いつく日本人力士は暫くは無理であろう。
分かってはいるものの国技である相撲の日本人横綱の誕生は、日本国家の再興と日本人自らが矜持を取り戻した時こそ、再び相撲の黄金時代が到来すると確信する次第である。

 

日本人横綱よ、出でよ。 角界の神よ、出でよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

一服タイム,,, 

 

 

私も水島氏に同感だが石破はいらねえし、石原のぼんくれなど追放せよ。

地方の自民党員はカス。山梨の自民党もカス何故赤池を応援しないのか。

天下の武田信玄も嘆いているぜ。

 

 

 

 

 

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