甲斐犬オヤジの独り言2



人間達よ、狼に学べ。


狼の群れは一組の夫婦と、その子供たちで構成されている。完全な家族社会だ。子狼達は二〜三歳の生獣になると、家族の群れから離れて独立すると言う。稀に雌の子の場合、幼い兄弟の世話係として家族の群れに留まるものもいると言う。しかし雄の子は例外なく、家族の群れから離れて己の道を探す厳しい旅に出るのだ。これがローンウルフ 一匹狼と呼ばれるものだ。しかし、親と離れて行く先は他の狼達のテリトりーを犯して行くことになり、別の群れに侵入した狼は、縄張り荒らしとして攻撃に遭い雄狼はその殆どが殺される運命にあるといわれている。雌のローンウルフの場合には、群れを率いる雄の狼は縄張り荒らしであっても雌には攻撃しないと言う。  

しかし、その時はその群れの雌狼達に攻撃されてしまう。しかし、雌狼の場合には極稀ではあるが、その家族の一員として生き延びることもあると言う。そこには人間社会より厳し狼の掟社会があり、その中を生き延びた雌雄の狼が出会って初めて新しい家族が構成されるのだ。だがこれで平和な暮らしが担保される訳ではなく、自分達が通って来た道を同じくするローンウルフと一生涯死闘を繰り返し、勝ち抜かなければ一瞬にして新しい家族は崩壊してしまうのである。群れのリーダーである父親が死ねば家族はバラバラになり、死を賭けた放浪の旅が又始まるのである。その逆に、群れが増えすぎたらどうするのか。母狼は子殺しをするのである。わが子を殺してまでも、群れの適正な個体数を守るのである。自分達のテリトリーで一番1重要なことはなにか、それは餌の確保である。獲物である鹿、猪の数と群れの数を母狼は的確に判断するのである。そして狼は、他の群れのテリトリーを犯して大きな群れを作ることは絶対しないのである。飽くまで家族主義なのだ。つまり「足るを知る」なのである。

獲物が確保できない時は、一週間でも十日でも辛抱と忍耐で空腹を乗り越へ、父狼を中心に序列を維持して行動するのである。そして、他の群れとの戦いには、父狼は死を賭して闘争するのである。自分の国さえ他国に守って貰いながら、何等矛盾も感ぜず、矜持も気概もない何処かの民は,この父狼を見習うべきではないのか。自国の平和までも他国に委ねると言うことは、人間に管理された家畜に等しい。

ニーチェ曰く、「家畜の群れの緑の牧場の幸福」そのものである。自国の安全まで他国に管理された社会にいる限り、その結果がなにを意味するかなど、想像もつかないのであろう。狭く、羽さえ広げられず、一日中餌を与えられ産卵し続けるニワトリ。所詮人間に食われる為だけに、豊富に餌を与えられ肥り続ける牛や豚。これ等家畜達は、自分の運命を全く知らず、自分達の命を人間に委ねていることさえ理解してはいないだろう。

理解する時にはもう遅いのである。しかし、そんな家畜と現代に生きる人間の間に、どれだけの違いがあるだろうか。目先の安全や、管理された社会にいる限り、人間と家畜の差があるとは思えないのである。現代人自らの意思で家畜の道を歩み続けることと同じことだろう。そして、理解したときは、手遅れ。自然に対する畏怖、畏敬の念を忘れ、他人の褌で平和を叫び、それで平和と安全が維持されると錯覚し、それでも管理社会の中で、生命第一、生活第一とノタマウ家畜に過ぎないことは明白ではないか。家畜と人間のどこに価値の違いがあるのか。それは、尊厳であろう。個人の生活や生命より尊いものがあると言う価値観に他ならない。狼も口減らしの為、子殺しをする。貧しい時代には、人間も口減らしの為子殺しをしてきた。産んだばかりの我が子を川にながし、その水子霊がカッパの伝説を生み、長者の家で障害児が産まれ、座敷牢で育てた子の霊が、座敷わらしの伝説を生んできた。

しかし、現代の子殺し、親殺しはなんなのか。金銭のため、己の感情の赴くままの修羅の世界ではないか。幼いわが子を両親が体罰を加えて殺害するなどまさに家畜以下の鬼畜。親の恩を知る年代の人間が、年老いた両親を殺害するなどまさに家畜以下の鬼畜。完全に狼の家族以下。現代人は、狼の家族の絆を学び、「足るを知る」生活をし、イザと言うときこそ一身を賭しても人間の尊厳を守り抜くと言う矜持と気概を身に付けるべきなのだ。「家畜の豚と化した人間は死ね。狼と化した人間よ生きろ。」



 2008年12月月 代表 小林

 

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